(ホルスタイン・ジャーナル誌 1999年6月号)
非常に興味深い標題のような記事が「ジャーナル誌」に出て、若い人にはあまり馴染みのない話題で どんなものかと思案しておりましたが、北米、特にラグアップルの改良足跡を知るのに若い人にも興味を 持っていただけるかなと訳者(H.F.)は考え、敢えてここにお送りする次第です。
能力と体型の改良上、カナダホルスタインが達成した数々の進歩の中で、長い歴史を通じて、 数多くの種雄牛が重要な役目を果たしてきた。今世紀の初めは、1頭の種雄牛の活動範囲は一つの農場か 多くて数軒の農場に限られていた。1930年代の後半に人工授精技術の発展と共に精液の凍結技術も開発され、 それに伴い事情が一変し、1頭の種雄牛が国内外を問わず数千頭の子牛の父親になれるようになった。
さて、今世紀カナダでどの牛が一体一番影響力が大きかっただろうか。そこでジャーナル誌は3頭の偉大な種雄牛を選んだ。
JRAPとかオールド ジョーと呼ばれたジョハナ・ラグアップル・パブスト(VG-EXTRA)は疑いなくカナダ ホルスタイン改良の歴史上最もインパクトの大きな種雄牛の1頭と考えられる。
現在ラグアップル系の始祖と考えられるJRAPは、マウント ビクトリア牧場の系統繁殖の結果、 世界中に彼の偉大な遺伝力が拡幡し、世界のホルスタインの95%、カナダ ホルスタインの99.5% が彼の子孫である。JRAPは、ウイスコンシン州ハートフォードにあった当時あまり知られていないフィリップ リンカー氏の牧場で 1921年1月24日に誕生した。彼の父は、パブスト・クロンダイク・スターで母はプリンセス・ジョハナ・ラグアップル・ ポンティアックであった。8ケ月令の時に、同じハートフォードの農場主、ジョセフ ピーク氏に売られた。 ショーブルとしてのJRAPについて、「彼に勝てる牛はいないだろうが、彼を好きな奴もいない」と良く言われた。 何故なら、彼は丸い感じの牛で大腿部は極めて肉厚であった。にも拘わらずJRAPは、1923,24,25年の3回連続2才級、 3才級、成牛級のオールアメリカンの栄誉を勝ち取った。カナダに移動してからは、ローヤル アグリカルチャー ウインター フェアで1926年、28年、29年の3回グランドチャンピオンになり、26年には4回目のオールアメリカン、28年、29年は 2回続けてリザーブ オールアメリカンとなった。
1926年の春に、オーナーのピーク氏は、この5才級の有名雄牛をクラーク ホルスタイン クラシック セールに掛け、 $15,000でT.B.マッコレー氏に売られた。マッコレー氏は、モントリオールに所在したサンライフ アシュアランス (生命保険会社)社の社長で、当時ケベック州ハドソンハイツに彼が作り上げようとしていたマウント ビクトリア牧場のためにJRAPを購入したのである。$15,000の値段は1920年以来オークションでホルスタイン牛に 支払われた最高価格であったが、1940年代までこの記録は書き換えられる事はなかった。マッコリー氏の信念は、 もし求めている種雄牛を手に入れたら正しい基礎牛の雌牛に交配し、インブリーディング(近親繁殖)とラインブリーディング (系統繁殖)を何世代か繰り返し、乳量を犠牲にせずに乳脂率を4%以上に固定し、しかもショータイプの体型に長持ちする 完璧な乳器を持つようなファミリーを作ることにあった。
マッコリー氏の掲げた全ての目標を満たすラグアップルの一族を築き上げるという夢は、 彼の生涯を通じて完全に成し遂げられなかったけれども、JRAPのお陰でこの短期間で彼が築き上げた成果は 他の誰にも真似のできぬものであった。JRAPは16年間マウント ビクトリア牧場で、彼自身をはじめ息牛達、 孫息牛達そのまた息牛達が、しっかりと確立したカウ ファミリーに使用され数々の名牛を作り出し偉大な成功をおさめた。 オークハースト・コランサ・アベカーク、トライユーン・パプース・ピーブ、レィディ・メグ・ポッシュ、 イングルサイド・ピーチェ・ポッシュ、ボンハー・アベカーク・ポッシュ2世、ディキシー・コランサ・ハートッグ等が その名牛の一部である。
1930年代JRAPの子孫が、カナダとアメリカのショーリングで数々の賞を取った。1935~36年、マッコリー氏の出陣で 父系群のオールアメリカンを獲得、1933~4年は父系群のリザーブ オールアメリカンを取った。 JRAPの娘の中で最も有名な
JRAPの最も名を売った息牛には、モントビク・チーフテン、ジェネラル・ポッシュ、モントビク・ポッシュ・ラグアップルや モントビク・ラグアップル・ポールが居た。
1942年6月29日にマウント ビクトリア牛群のディスパーサル セールが行なわれ、当時の記録1頭平均$1,925を達成し、 全ての牛が2頭を除いてJRAPの自家繁殖の子孫であった。このセールの結果、JRAPの遺伝子が北米の各地に巾広く拡散され、 当時最も重要な種雄牛や優秀なカウファミリーにそれまで以上に浸透していった。カナダでは、モントビク・ラグアップル・ マークスマン(EX-EXTRA)、モントビク・ラグアップル・ソブリン(EX-ST)、ABC・リフレクション・ソブリン(EX-EXTRA)、 ラウンドオーク・ラグアップル・エレベーション(EX-GM)、ハノーバーヒル・スターバック(EX-EXTRA)等諸々の種雄牛が独占的に使われた。
ジョハナ・ラグアップル・パブストは1933年、12才の時に飛節部分を骨折したため、眠らせることになった。 しかし、彼の名声と遺産は次の世紀まで生き続けるであろう。
カナダで人工授精を本格的に世に広げたのがモントビク・ラグアップル・ソブリンであった。マウント ビクトリア牧場で彼は 1942年4月17日にエンペラー・オブ・マウント・ビクトリアを父として誕生した。ソブリンは当牧場の次世代のハード サイア (牧場での中心的種雄牛)を生産するための計画交配の結果生まれてきたものである。彼の母は、オールド コランサと呼ばれた モントビク・ラグアップル・コランサ・アベカーク(EX-11*)で、彼女はJRAPの最も優秀な娘牛の1頭と考えられていた。 1938年のカナディアン ナショナル エキシビションでグランド チャンピオンとなり、1935年と36年にはJRAPの父系群で オールアメリカンに輝いた一員であった。また、1941年に彼女は、1,263ポンド(572キロ)の3回搾乳脂肪量の世界記録を作った。 彼女はもう1頭の有名な種雄牛モントビク・ラグアップル・マークスマン(EX-EXTRA)の母親でもあり、マークスマンは、 オールアメリカンに7回も選ばれ、この記録は今まで塗り替えられていない。1942年のマウント ビクトリア牧場のディスバーサル セールで、ソブリンはわずか2.5ケ月令でオンタリオ州ウッドストックのトム デント氏とクラーク ブラウン氏に$4,075で買われた。 この価格は、20年以上この月令の子牛に支払われた最高額であった。
ソブリンは、彼の生涯の大半をトム デント氏所有のスプリングバンク ファームで過ごし、当時のハーズマン、ボブ ハウデン氏が 彼一人でこの巨大な雄牛の調教と共進会での出陣を行なった。彼の独房でも、庭先でも一旦ハウデン氏が頭絡を掛けると非常に 温和しく指示通りのポーズを取るのが皆の驚きであった。
1943年の早い時期、ソブリンが1才になった頃、新しく立上げられたウオータールー カウンテイ ホルスタイン ブリーダーズ クラブと言う人工授精所でかれの精液を組合員に使わせた。週に2回ジョンソン獣医か彼の助手がウオータールーから スプリングバンク牧場へ出掛けソブリンから採精、ウオータールー カウンテイだけでなくオンタリオ州南部全域に亘る雌牛に授精された。 後に、ソブリンの人工授精事業はオックスフォード ホルスタイン ブリーダーズ協会へ移り、彼自身も最後の1年間はこの授精所に繋養された。
ソブリンは、1944と1945年に2才級と3才級でオールカナディアンを取得し、1946と47年は成牛として彼の母方兄の マークスマンに次いでリザーブ オールカナディアンとなった。
ソブリンとマークスマンは、1944年から47年の4年間連続して母系群のオールカナディアンに輝き、1947年には同クラスの オールアメリカンとなった。ソブリンの子供達は、数多くショーで活躍したが、全部で17個のオールカナディアンを獲得した。
ソブリンが自然交配と併せ人工授精技術の普及と共に使われたことで、ホルスタインの改良に多大な貢献をした。彼の名前は今日、 沢山の牛の血統書に現れている。一時ソブリンは他のどの雄牛よりも血統登録された子牛の数が多かった。当時良く言われたことは、 カナダで使われた種雄牛の中で、ソブリンは他のどの雄牛よりも多くの人に多くの金を稼がせてくれたし、数多くのホルスタイン ブリーダーの借金を返済してくれたと。彼の最初の子供達は、素晴らしい資質と見栄えのするタイプで人々を魅了したため、 大きな需要が起こり、セールでも相対取引でも人気の的となった。
1949年12月にソブリンは死んだが、米国とカナダで107頭の検定娘牛の平均乳脂率が4.07%の記録で "世紀の種雄牛" としての
名声を得た。彼の数々の息牛の中で最も偉大であったのがABC・リフレクション・ソブリン EX-EXTRAである。ABCは次のような
有名種雄牛の父親となった。
これらABCの息牛が活躍している時代は、残念ながらカナダホルスタイン協会は、赤/白斑牛の登録を認めておらず、 赤/白斑の戻性因子を持つ種雄牛を人工授精所に繋ぐことを極力やめさせた。その結果、赤/白斑の戻性遺伝子を持つ ABCの代表息牛の何頭かは淘汰された。ABC以外にもソブリンは、次ぎのような有名息牛を持った。
子孫の中には、シーリング・ロックマン EX-EXTRA、ポーニー・ファーム・アーリンダ・チーフ EX-GMにその息子 S-W-D・バリアント EX-GMがいて、バリアントは、その息牛ハノーバーヒル・インスピレーション EX-EXTRA等を通じて カナダホルスタインの改良に大きな足跡を残しており、カナダ乳牛の改良に果たしたソブリンの業績は、偉大なものである。
カナダ牛の近年の改良で最も著名な種雄牛はハノーバーヒル スターバックと言わざるを得ない。1979年4月26日に オンタリオ州ポートペリーのハノーバーヒル牧場で生まれ、母親は、パクラマー・アストロナウトの娘アナエーカーズ・ アストロナウト・アイバンホーである。父親は、ラウンドオーク・ラグアップル・エレベーション EX-GMでエレベーションもまた、 その息牛や孫息牛を通してカナダホルスタインに大きな影響力を発揮した。
スターバックは、その血統書の中でジョハナ・ラグアップル・パブストが45回も出てくるが、彼は7.5ケ月令の時にケベック州 セント ヒアシンスのCIAQによって購入された。1980年に後代検定に掛けられた。彼のセカンドクロップが各地区の共進会で 上位をほぼ独占し始めた1986年にスターバックマニア(スターバック信者)が生まれた。1987年から1993年の7年間連続して 彼はオールカナディアンやオールアメリカンのリーディングサイアとなった。
スターバックは今日まで41頭の子供達が35のオールカナディアンと27のリザーブを35頭の子供達が42のオールアメリカンと 24のリザーブを勝ち取った。父系群では、1989-92-93-95年にオールアメリカンを、88年にリザーブの栄誉に輝いた。1986年から 95年の間に、米加の五大ショウ即ちローヤル、デイリーエキスポ、ケベック スプリング ショウ、 ケベック州ショウ、オールアメリカン デイリーショウで27回プレミア サイアとなった。当初スターバックは、タイプ改良の 専門家として認識され、偉大な多くの雌牛を通して後に広く彼の産乳能力の非凡さも認知された。彼は、 1991-93・95年に高産乳能力牛のリストであるオーナーリストのリーディング サイア(リスト アップされている娘牛の数が一番多い) となり、1988-94-98には二番手となった。彼の子供達はセールでも高価格を記録し、最高記録は1989年ハノーバーヒル牧場 ファイナルチャプター セールで売られたハノーバーヒル スター ルル(EX-GMD-DOM)で金額は$635,000であった。 1990年にはスターバックはカナダで子牛の登録が5万頭を超えた。カナダ産娘牛の70%がGP以上のスコア、内347頭がEXで 6,912頭がVGである。前述のスタールル以外にスターバックの代表娘牛は、デュパスクエア・スターブ・ウイニー EX-3E、 マークレイ・スターバック・ウイットニー EX、アクメ・スターリリー EXがいるが、これらは全てオールカナディアンに輝いている。
スターバックは、カナダ遺伝子を世界ホルスタインへ伝播させる最高の親善大使で、45ケ国に685,000本の精液が輸出された。 生涯を通じてのその高い人気を維持し、五大陸に20万頭以上の娘牛を作出した。彼の精液販売で得た総収入は、2.5千万ドル (207億円強)となった。シーメックス カナダの種雄牛の中で最高販売高を5回記録している。
1990年代の初期にスターバックの息牛達が世間に顔を出した時、彼の遺伝力が息牛達を通じて明確になったのは、 体型上でもっとも大切な形質に加えて、産乳能力特に当時重要度の増した蛋白の改良に大きな力を発揮できる事であった。 人工授精所では、通常後代検定牛10頭中1頭が授精に供されるところ、スターバックの息牛に限って5対1の割合で使われた。 1994年の1月には、カナダで使われたアクティブ サイアの25%がスターバックの息牛で現在では各授精所のトップ ブルの多くが 彼の孫息牛で今日でも彼の存在感が眼に見える。スターバックの息牛か孫息子が1991年から98年まで連続して毎回のプルーフで LPIリストのトップを占めてきた。カナダで検定されたスターバックの息牛209頭の内、12頭がクラス エキストラ (体型、能力ともに娘牛が好成績)、43頭がスペリオア タイプ(娘牛が好体型)で9頭がスペリオア プロダクション (娘牛が高能力)である。彼の最初の検定済息牛がマダワスカ エアロスター EX-EXTRAであった。エアロスター自身今日まで 1.1百万本の精液販売で良く知られ、世界中のAIが1,000頭以上の息牛を検定し、その意味でも父親スターバックに対抗できる。 エアロスター以外で有名なスターバックの息牛は、レイダー EX-EXTRA、アスター スターバック EX-EXTRA、プレリュード GP-EXTRA、スターダスト EX-ST等である。スタートモア ルドルフ EX-EXTRAを初め、モーリン ストーム EX-EXTRA、 ショアマー メイスン EX-EXTRA、コムスターリー VG-EXTRA等400頭以上の孫息牛がカナダに居てスターバックの名声を 未だ浸透させている。
スターバックの晩年は、授精はされずCIAQの特設独房で余生を送った。1998年9月17日に19才と4ケ月という人工授精所史上最高令でこの世を去った。